ケネディ元大統領が尊敬した日本人、上杉鷹山って何者??

で世界的に有名なケネディ元大統領。

アメリカ第35代大統領であり43歳の若さで大統領に就任し、人種差別の廃止を訴えキューバ危機を乗り越え、その死から半世紀経った現在でも、非常に人気が高いアメリカに残る人物です。

そんなケネディ元大統領が尊敬する日本人がいました。

彼の名前は上杉鷹山。

上杉鷹山とは一体何者なのでしょうか?



上杉鷹山とは何者?

ケネディ元大統領の娘であり、かつて駐日大使を務めたキャロラインケネディは父は上杉鷹山を尊敬していたと語っていました。

あまり聞き覚えの無い上杉鷹山と言う人物名を教科書で調べるとほとんど記載がなく、やっと見つけた記述には「米沢藩主であり名君」とわずかな情報のみが書かれているだけ。

上杉様山について地元、山形県米沢市の人々に聞いてみると「米沢市の人だったらみんな知っていると語っており」米沢藩を財政難から立て直した英雄として崇められているようです。

さらに上杉鷹山は日本人なら誰もがする名言の生みの親なんだそうです。

上杉鷹山は宮城県の秋月家の次男として生を受けました。

この頃家を継ぐのは主に第一子。

そのため長男以外は跡継ぎがいない大名家に養子に出されることが多かったそうで、次男だった鷹山もまた、生まれた宮崎県から跡継ぎがなく、母の縁があった米沢藩へ9歳で養子に出されました。

そして将来の藩主として家庭教師から「リーダーとしての哲学」を日々を教わります。

鷹山が17歳の時、義理の父である米沢藩主が病に倒れたため彼は17歳と言う若さで米沢藩第9代藩主になります。

すると藩主なった鷹山は家庭教師から受けた教えをすぐさま行動に移し始めました。

彼は常に相手の立場を考え、特に弱い立場に居る人の事を考え、その人ならこう考えるだろうと忖度したそうです。

米沢藩トップという肩書を一切忘れ、ただの人間として民と触れ合ったそうです。

しかし、当時米沢藩は非常に財政難であり、前途多難。

また、前米沢藩主の時代から大洪水や冷害に襲われ、2年続けての凶作となっていました。

絶望した民衆は藩から逃げ出し、税収も得られない状態でした。

その結果、膨れ上がった借金は現在の価格で約200億円となり、米沢藩はいつしか貧乏藩になっていまいた。

この事態に上杉鷹山は経費削減命令を行います。

上杉鷹山はまず自ら経費削減を実行し、率先して衣の着物から安価な木綿の着物へ、そして食事も質素な一汁一菜とする事で、生活費を7割以上削減しました。

さらに鷹山は民の仕事を増やし、収入を増やすことで税率を上げる事無く年貢を増やす、所得倍増計画を打ち出します。

多くの米を作り、民を豊かにすることで藩の収入を得ようと考えたのです。

しかも困窮で苗が買えない民には資金を融資する制度も作りました。

こうして作物の収穫量が増え、無理な取立てをしなくても財政を立て直します。

そして、得た資金を弱者に当てる為使用します。

当時は貧しい家に生まれ、育てることが出来ない赤ん坊が誕生すると、赤子を殺める間引きという行為が行われていました。

この為、米沢藩の人口は15万人から9万人に激減します。

この事態に鷹山は間引きを禁止し、藩から資金を捻出しました。

現在の保育制度のようなこの制度を使用し、将来的に人口が増えることで米沢藩がさらに潤うと考えました。

また、働けなくなった高齢者を野山に置き去りにする口減らしという行為に対して、高齢者に寿命を迎えるまで食べていけるという制度も作りました。

こうして若き藩主である上杉鷹山は米沢藩を窮地から救い、一時は200億円の借金があった財政も返せるめどが立つほど回復。

さらに人口も回復していきました。

貧乏藩から見事な復活を遂げた米沢藩ですが、藩主であった上杉鷹山は34歳という若さで藩主をおり、後を継ぐ時期藩主にある言葉を送ります。

その言葉こそ日本人なら誰もが知る言葉であり、その言葉とは「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」!

「やれば物事は何でもできる 何でもやってみる事だ できないという事はやる意思がたりないから」という意味です。

この書状は国宝として米沢にある上杉博物館に今も保管され、この鷹山の功績は偉人伝として海外にも紹介され、当時財政危機に瀕していた若き大統領であるケネディの目に触れたそうです。